明確な倫理基準を自己の中に築く

次の記事(http://togetter.com/li/826854)ではお坊さんは次のように述べている.

イルカを擁護(なんか変な言葉だけど)する方は、同じロジックで「何」まで擁護するのか知りたいなあ。サルはどうなんだろ、「サルの苦痛を…」とはいうのだろうか?じゃあ「魚」は?「牛」は?「植物」は?もしそれらを擁護しないのであれば、その「線引き」は何なんだろう。純粋に興味がある。 

これは,「砂山のパラドック」である.「砂山のパラドックス」とは数学的帰納法にアナロジーをおいた詭弁の一種であり,この「砂山のパラドックス」を具体的に説明すると次のようになる.

あるところに,(n=0)日目では腐っていない牛乳があったとする.腐っていない牛乳は一日経っても腐らないとすると,(n+1)日目でも腐らないということであり,数学的帰納法により,牛乳は常に腐らないということになる.しかし,牛乳はある日を境に腐って飲めなくなるのであり,この理論はどこかに矛盾をはらんでいる.

これが「砂山のパラドックス」である.そして,お坊さんの発言はまさにこれに当たる.どこかに「食べてはいけない」線引きがあるのだ.これに対してある女性が次のように反論した.

逆に何までなら食べませんか?(中略)では何故人間は食べないのでしょう?

これは「砂山のパラドックス」が内包する誤謬を指摘したものだ.その理論を逆に拡大解釈すれば,「人も食べても良い」という理屈になるという指摘である.この反論に対して,先ほどの記事では,泥沼の論戦が続くのだが,私も読む気がしないので,取り上げない.

しかし,このやりとりが起きた原因のそもそもは,我々の中に明確な倫理基準が無いことにあると思う.我々は,曖昧に「イルカは食べても良いが,人は食べてはいけない」という倫理基準を持っている.しかし,曖昧なゆえに,なぜ食べてはいけないのかと言うことを説明できない.だから,このような詭弁が平気で語られる.我々は,「なぜイルカは食べて良くて,人は食べてはいけないのか」という問いに答えられるよう,自己の中に明確な自己基準を築くべきだと,このやりとりを見て思った.明確な倫理基準を築いて精神的な独立を果たそうと言うことだ.

(なお,人それぞれ倫理観は異なり,「イルカも食べてはいけない」と考える人も居るだろう.その人も正しいのであり,お互いの倫理観は尊重されるべきである.)

宗教の七不思議

・仮に神が存在したとしても,あまたある宗教の中で一つ正しい宗教が存在し,それ以外は正しくない宗教となるのだから,無宗教という中立的立場が最も安全な選択ではないのか

世界には数多くの宗教が存在し,既に滅んでしまった宗教,これから生まれてくるであろう宗教などを含めれば,人の数ほど宗教は存在する.そしてほとんどの宗教は,自分以外の宗教の正当性は認めない排他的教義を持っている.すべての宗教が自分以外の宗教の正当性を認めないと仮定すれば,正しい宗教は一つしか存在せず,それ以外は正しくない宗教となってしまう.宗教の数から考えて自分が正しい宗教を選択している可能性は50%を超えるとは考えられず,間違った宗教を選択して反逆者の烙印を押されるよりは,無宗教という中立的立場を取った方が安全なのではないか.

 

・神の存在を信じなくても,正しく生きれば,それで良いのでは無いのか.なぜそれではなダメなのか.

一般的に多くの宗教では,倫理的に正しく生きることを説いているわけであるが,では神の存在は信じないが,倫理的に正しく生きているひとは許されないのか.神の存在を信じることはそれほど大切なのか.

 

・神はなぜ自分の存在を証明しないのに,人類には自分の存在を信じてもらいたいのか

 神は反論の余地が無い明確な方法で自分自身の存在を証明するべきで,それをしないのに,自分の存在は信じろというのは,無理な要求では無いだろうか.そして,信じなければ地獄に落とすという宗教も存在する.

 

・なぜあの世(天国/地獄)の存在を証明しないのか

あの世の目的は宗教によって異なるだろうが,存在が曖昧な状態より,存在を明確に示した方が良いのではないだろうか.懲罰が目的なら,見せしめ的にあの世の存在を示すべきだ.

 

・なぜあの世(天国/地獄)の存在を隠さないのか

あの世の目的は宗教によって異なるだろうが,あの世の目的が恩賞であるならば,曖昧ながらあの世の存在が信じられるよりは,あの世の存在が認知されていない方が良いのではないだろうか.

 

・神はなぜ積極的に人類に干渉しないのか

人類は先史以来,様々な悪行を働いてきたが,奴隷制度や民族浄化などの悪行も人類自身で正してきた.なぜ神が干渉しないのか.そして,地球温暖化や核戦争など人類の存在自体を揺るがす悪行を働こうとしているが,なぜそれを止めようとしないのか.

 

・世界は神が作った箱庭だったとして,宇宙の広さはあまりにも無駄な大きさでは無いか

宇宙は大きすぎる.

強固な世界観を築く

 我々の住む世界は多くの矛盾を内包しており,その帰結として,我々の世界観も矛盾を保留したまま築かれ,今を生きている人は多いと思う.しかし,その保留されたままの矛盾は,アキレス腱の如き脆弱さを秘めており,その脆弱さを埋めるために,我々は宗教に頼ることが多い.宗教では,世の矛盾に対して,神という絶対的権力の名の下に保証された,正しい指針が示されている.我々は,自分自身で矛盾を解決すること無く,神という都合の良い道具を使って,自分自身が解決するべき課題を外部委託しているのである.

 世の中には,悪が満ちあふれている.それに対する自分自身がとるべき態度も,宗教が教えてくれる.善悪の判断も,自分自身で自信を持って断言できないので,宗教という権威に頼る.自分という存在の意義,自分自身の存在,これらを規定する行為も宗教が肩代わりしてくれる.しかし,これら世界観は,思春期に自らが構築するべきものである.

 「死」という宿命を受け止め,それを受容する態度を保留し,「死」から逃げる「輪廻転生」という論法も許されない.「死」と正しく向き合い,現世を悔いなく生きる心持ちを持つべきだ.それは,日本に古来から伝わる,「一期一会」の精神に通ずるものがあるだろう.飽食の時代にあって,これを実践するのは難しいかもしれないが,一粒の木の実を大切に味わい,咀嚼するということが,一度しかない人生を悔いなく,充実して生きるということに繋がる.例えば,ディズニーランドに人生で一度しか遊びに行けなくても,その一度を楽しむ楽しみ方もある.楽しもうと思えば.むしろ,年間フリーパスを購入し,何度も何度もディズニーランドに訪れ,満たされることのない充足感に溺れ続ける人より,それは幸せである.

 宗教というのは便利な道具である.それに頼りたい気持ちも理解できるが,幻想を幻想と知らず,幻想の世界に生きたまま,人生を終えるというのは誠に残念なことだと思う.

 幼児期の子供は,まれに,空想上の友達を作って,自我と世界との折り合いをつける,イマジナリーフレンドという存在を作ることがあるそうだ.宗教もイマジナリーフレンドのような存在だ.自我と世界との折り合いを付けるために存在する空想上の概念という点では.精神的に成長するとは,この空想上の宗教という存在から決別し,世界から独立した精神を構築すると言うことだ.

いざ行かん,宗教の無き世界へと.

シルバーデモクラシー

若い人というのは,無意味に新しい物が好きで,新しいものに取り替えても不便になるだけなのに,新技術と聞けば手に取ってしまう習性がある.対して,老いた人は,新しいものには消極的で,なるべくなら関わりたくないという態度で新技術などに接する.新しいことに対するこれら二つの態度は,当然両方必要で,積極性があるから進歩できるし,消極性があるからこそ慎重になれる.そして,これらの態度を若い人と老いた人で分担するよう,人間の社会は形作られているようだ.老い先短い老人と未来がある若人には,丁度良い役割分担だと思う.

そして,今回の大阪都構想の選挙結果を見て,若い人の賛成率と,老いた人の反対率がちょうど対称な関係になっているというのは,綺麗に自然の摂理が働いたものだと感心した.しかし,twitter上では,たまたま老人世代がキャスティングボートを握っただけと言うのに,老人世代が,改革を握りつぶしたと言うような言説が流れている.だが,若者世代も30%は反対だったし,老人世代も30%は賛成だった.確かに,差はあったが,全責任があるかの言い様は言い過ぎだと思う.

老人が新しいことに消極的なのは彼らの宿命だ.例えば,老人にリフォームを機に和室から(体に負担の少ない)洋室へ替えてみてはどうかと勧めても,住み慣れた和室にこだわるかもしれない.終の住処を選ぶのは彼の権利であり,私たちが口を出す権利は無い.

 

(twitter上で,自分も批判的なことを書いていたような気がするが,流されて書いた物です.)

宗教とは

 宗教とは人間の精神的脆さを補完するためにある.大抵の人は何らかの脆さを抱えており,それは死後の世界への不安であったり,人生の生き方についてだったりする.あるいは,「なぜ人を殺していけないのか」というような善の基準を信教に求める場合もある.これら,精神的弱さをもし宗教に頼らず克服できれば,動物の中で人間のみが生み出した,宗教という空想の存在から独立できるだろう.

 しかし,問題なのは,これらの精神的脆さを克服できずに宗教を否定する場合である.この場合,結局あやしいカルト宗教にはまったり,精神的に乏しい生き方を送ることになり,さながら,未熟な子供が背伸びをして家を飛び出し,大やけどをするのに似たことになる.(盗んだバイクで駆け抜ける的な)

 つまり,宗教という自己暗示的欺瞞から脱却するのは良いのだが,脱却するには精神的に宗教から独立する必要がある.「なぜ人を殺していけないのか」とか,「死後の世界」とか,「生きる意味」などの答えに答えられなければ,無宗教を名乗るのは危ぶまれる.(古代メソポタミアの人々は死後の世界を信じていなかったそうだし,善の基準だって理性的に考えれば答えはある.)

リテラシ

メディア・リテラシーなるもの - 擬似環境の向こう側

上の記事では,メディアリテラシという概念の普及により,アレルギ反応的マスコミ避忌を嘆いているが,大げさなのはさておき,リテラシは当然心得ておくべき規範的考え方である.(交通ルールみたいなもので,みんながみんな心得ておくべきである.)

メディアリテラシが欠けていた事例として「日比谷公園焼き討ち事件」をあげると,これは国民が日本の国情をよく理解せず戦争継続を訴えた事例であるが,このときは政府は賢かったので,再び戦争の火蓋を開けることはなく,日露戦争は日本の勝利で終った.つづく「第二次世界大戦」もメディアリテラシを欠く国民は殆ど熱狂的に戦争を支持し,この時は政府も愚かだった(海軍は努力した)ので,日本は戦争に負けた.

戦後,ある程度のメディアリテラシを得たと思われる日本国民は高度経済成長に伴う四大公害に直面するが,「科学的根拠はない」という言葉を真に受け,科学的に(有害物質と病気の)因果関係が解明されていないだけで,経験的には有害性が考えられる化学物質の排出を問題視しなかった.この時は,メディアリテラシどころか科学リテラシすら欠けていた.

次いで,現代,福島原発事故に伴う,環境系の放射能汚染も大概のことは「科学的根拠はない」という言葉で片づけているが,これで良いのだろうか.もし,国民にメディアリテラシが備わっているなら,国民は一斉にデモを起こし,福島に住む人々を救い出すべきなのではないだろうか.何十年後に結果が出たとき,後生の人々は我々を非難しないだろうか.

もちろん,報道を見る限りでは,福島全域が高濃度に汚染されているわけではないし,今の状態なら喫煙などよりは安全だと思うし,そこまでする必要はないと思うが.そこまで科学を盲信して良いのだろうか.むしろ,事故後の汚染水の処理で,希釈すればほとんど無害なトリチウムの廃棄に,世論が反発していたのをみて過剰な反応だと思ったほどなのだが.それでも,科学は絶対ではないのだから.