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新旧ゴジラに見る暗喩,及びその暗喩の意味

1954年公開の「ゴジラ」は,当時の人たちが見れば,それはゴジラを空襲(もしくは原爆)の暗喩とおいているということは明瞭に分かった事だろう.翻って,昨年大ヒットし,日本アカデミー賞を総なめした「シン・ゴジラ」もまた,ゴジラ原発事故の暗喩とおいていることは,現世代から見れば,明白な事実である.何の因果かは分からないが,両作品ともに,原子力の負の側面をゴジラで表現してきたという事実には,何か不思議な相関を感じずにはいられない.

さて,両作品ともに,思い出したくない災厄をゴジラを暗喩に追体験するかのような内容となっており,なぜこのような忘れたいだろう過去をあえて思い出させるような作品が,日本の映画史に残るようなヒットを打ち出したというのかということは当然のごとく疑問として挙げられなければならないだろう.

この疑問に対して私は次の仮説を提示する.

受け入れがたい事象であっても, いつかは記憶として受け入れる必要がある.そのために,その事象を再定義するような作品が社会的に求められ,多くの人々がその事象の再定義を望むとき,ゴジラのように,暗喩を用いて辛い災厄を追体験するような作品が生み出される.

 原発事故も空襲も,多くの国民は一方的に受難の立場であった.市民の努力によって状況が僅かでも変化する余地がある性質ではなかった.自分の介在しない所からいきなり災厄が発生し,そして,自分たちの努力を発揮する事もなく終わってしまうのである.これでは,市民のやるせない思いは如何程のものであったであろうか.受け入れがたい事象,自分たちの無力さ.これらに対して解決を求めた時,ゴジラが生み出されるのだろう.

ゴジラという災厄に対して,最善とは言えないまでも,善処し,主人公達の努力によって最終的にはゴジラに勝利するという追体験を主人公に付託して経験し,過去の災厄に一区切りを打ち,記憶として受け入れようというのがゴジラという映画なのではないだろうか.

同時期に公開された「君の名は」が海外でも好評であったのに対して,「シン・ゴジラ」が日本のヒットに対して海外では鳴かず飛ばずだったということもこの仮説と照らし合わされば,納得できるだろう.「君の名は」は,恋愛という普遍的価値観の上に描かれた作品だった.「シン・ゴジラ」は原発事故という日本人の心のしこりを解消するために描かれた作品であり,原発事故という心のしこりを抱かずに済んだ,海外では,そもそもこのような映画は求められていないのである.ゆえに,「シン・ゴジラ」は海外でヒットしなかったのである.

結論

  • シン・ゴジラ」は日本人が抱えていた原発事故という心のしこりを解消するために,社会的要請として出現した作品である.ゆえに海外ではヒットしなかった.
  • ゴジラという災厄に対していかに克服するかを,主人公たちに付託し,ゴジラへの勝利という結末によって過去の災厄に一区切りをうち,記憶として受け入れようというのがゴジラという映画なのではないだろうか.