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マイノリティに対する社会の態度、マイノリティ側の社会への態度

 先生の「今のところで、分からないところがあったら聞いてね」という問いに対して、お決まりのように生徒から質問が返ってこない姿は、日本の授業における日常的な風景だ。分かりにくいところがあったのならば、質すのがお互いの利益にかなうというのに、声を上げない。(明らかに自分の質問が大多数派と自覚できる場合に限っては、押し出されるようにおずおずと質問もされるが、大多数派と確信できない限り質問は発せられない。)

 この現象は、マイノリティに対する意見封殺の一例とみることができるだろう。マイノリティに対する意見封殺がこの程度であれば可愛げもあるが、たとえば、これが国家における意思決定であれば、問題は看過できない。国家の興廃がかかるような意思決定において、マイノリティの意見を封殺するような力が働けば、先の大戦のような過ちをまた繰り返すことになる。(問題は戦争か平和かという選択ではなく、意思決定においてマイノリティの意見を取り込む社会的土壌があるのか無いのかであって、毎回の問いが戦争か平和かという選択とは限らないということである。経済連合に加わるか加わらないかであったりするかもしれない。)

 しかし、日本社会は、先の大戦での教訓として、このことを学ばなかったからこそ、現代でもこのような風景が繰り返され、このような日常的な風景から、日本社会の病理をいちいち自覚することになるのではないだろうか。(日本国民の一般的な見解としては、軍部の暴走から間違った選択を強いられたという考え方が大多数だろうが、このようなマイノリティに対する意見封殺も間違った選択の原因だろう。)

 しかし、少なくとも、小学生の頃は、分からないことがあれば遠慮無く授業中でも質問していた記憶がある。これというのは、小学生が、まだ社会には取り込まれていない、非社会的生物であったからと考えられる。そして、社会的生物として社会に取り込まれていく過程で、質問を発しなくなるのである。つまり、一つだけ安心できる点は、社会の病理であって、民族の病理ではないという点である。

 アメリカの大学の授業を見ると、学生が授業中でも自由に質問を発している。アメリカは人種のるつぼであり、マイノリティを受容し、社会に取り込む文化があったからこそ、強大な大国になり得たのだ。アメリカのような風景が訪れんことを。