リテラシ

メディア・リテラシーなるもの - 擬似環境の向こう側

上の記事では,メディアリテラシという概念の普及により,アレルギ反応的マスコミ避忌を嘆いているが,大げさなのはさておき,リテラシは当然心得ておくべき規範的考え方である.(交通ルールみたいなもので,みんながみんな心得ておくべきである.)

メディアリテラシが欠けていた事例として「日比谷公園焼き討ち事件」をあげると,これは国民が日本の国情をよく理解せず戦争継続を訴えた事例であるが,このときは政府は賢かったので,再び戦争の火蓋を開けることはなく,日露戦争は日本の勝利で終った.つづく「第二次世界大戦」もメディアリテラシを欠く国民は殆ど熱狂的に戦争を支持し,この時は政府も愚かだった(海軍は努力した)ので,日本は戦争に負けた.

戦後,ある程度のメディアリテラシを得たと思われる日本国民は高度経済成長に伴う四大公害に直面するが,「科学的根拠はない」という言葉を真に受け,科学的に(有害物質と病気の)因果関係が解明されていないだけで,経験的には有害性が考えられる化学物質の排出を問題視しなかった.この時は,メディアリテラシどころか科学リテラシすら欠けていた.

次いで,現代,福島原発事故に伴う,環境系の放射能汚染も大概のことは「科学的根拠はない」という言葉で片づけているが,これで良いのだろうか.もし,国民にメディアリテラシが備わっているなら,国民は一斉にデモを起こし,福島に住む人々を救い出すべきなのではないだろうか.何十年後に結果が出たとき,後生の人々は我々を非難しないだろうか.

もちろん,報道を見る限りでは,福島全域が高濃度に汚染されているわけではないし,今の状態なら喫煙などよりは安全だと思うし,そこまでする必要はないと思うが.そこまで科学を盲信して良いのだろうか.むしろ,事故後の汚染水の処理で,希釈すればほとんど無害なトリチウムの廃棄に,世論が反発していたのをみて過剰な反応だと思ったほどなのだが.それでも,科学は絶対ではないのだから.