生前退位(生前禅譲だと語呂が悪いなあ)

 ニュースをみると生前退位がトピックに上がっているが,女系天皇制云々で皇室典範改正を,とことん事なかれ主義でうやむやに流して,問題を先送りにしたって言うのを見てきた立場としては,今回もうやむやに流れるんだろうなっておもった.(時代に合わせてどんどん変えれば良いのになあ.)

 まあ,護憲派がとことん憲法改正したくないのと同じ心情なんだろうなあと思う.一度変えちゃうと止めどなく変わっちゃいそうだからね.護典派?

 保守派とリベラル,護るものの立場が変われど結局,同じような頑迷な考えに陥っちゃうようになるって言うのは,悲しいといえばかなしい.

憲法改正

 先般の参議院選挙の結果を見るに,憲法改正が現実感を持ち始めたわけである.私の家は,祖父が熱烈な自民党員だったこともあるので,当然今回も自民党に入れさせていただいた.(議員の奥さんの戸別訪問に一日つき合わされたり,山の畑で,不要になったポスター用の合板の板(1*1[m^2]くらい?)を,数十枚野焼きしたり,議員亡き後の財産整理で,何もない政治家宅の部屋に一日放り込まれ,祖父が別室で仕事している間,何もしないで待っていたり,結構自民党員(?)やってたわけですよ,僕も.)

 で,思うのが,憲法九条改正するのかなと言うことである.憲法改正は,まあ,保守派の悲願であるわけであるが,集団的自衛権は認められたわけであるし,明文化はされていないけれども解釈によって自衛権自衛隊の存在)は認められているわけで,まさか改正によって交戦権まで認めることにはならないよね?って思う次第なのである.アメリカの戦後の歴史を見るに,ベトナム侵攻,パナマ侵攻,イラク侵攻,大概は関係者全てが不幸になっているという明確な裏打ちがあるわけで,今の時代に,交戦権は大国でもない日本には当然不要の長物であって,あっても不幸になるだけ,仮に飾りとしての価値だけを考えたとしても,それを得るために失う物の方が多いような気もしてしまうわけである.

 でも,しかし,改正したいという保守派の心情も分からないでもないわけである.結局憲法はアメリカさんから与えられた物であって,自分達で打ち立てた物ではないという,引け目が,その心情の源泉なんだろうなとも思う.であるからして,どうすれば良いかと言えば,憲法の序文を改正するって言うので,どうですかと思うのである.本文の方を改正すると,今まで積み上げてきた物を一からやり直すって事になって,いろいろ面倒だし,序文なら日本国民としての心情琴線を表現し,日本国民のための憲法であると言うことを宣言明示出来るであろうから,ちょうど良いのではないかと考えるのである.まあ,妥協案である.出来ることなら,全部書き換えたいというのが,本心だろうが,差し障りが多いだろうし,何を求めているかと言うことを分析すると,本質は,日本国民のための憲法であるという意味づけを求めているのであるのだから,序文を日本人の手で書き表せたのなら,それで良いんじゃないのかなと思うわけである.

書評

 中川恒子著の「乗合馬車」を読む.日本人妻の外国女性が,日本で自分の店を開くという内容だが,女性の社会進出を描いた内容であり,この内容を戦前に発表して,芥川賞を受賞したという事実は感慨深いものがある.ではあるが,女性の社会進出を日本在住の外国人女性に付託して描いている点は,当時の日本の限界だったのかも知れない.果たして,純粋な日本人女性が,家庭を持ちながら"道楽"でお店を開くと言うことが,当時の社会で受け入れられたのであろうか.作中では,進歩的な混血女性と旧弊な考えの純日本人女性との対話中で「ひとはパンのみに生きるにあらず」という下りがある.女性は家庭のほかに,自分の生きがいを求める権利があるというのは,当世においては当然の考え方であるが,その当時は女性は良妻賢母であればそれで良いという時代であって,その意味で非常に進歩的だと感じた.

 作中では,女主人公が仕事に熱中するあまり,家庭が疎かになり,そのことに反発する夫が描かれているが,本作より30年ほど先行して出版された「あしながおじさん」においても,やはり,女性がお金を稼ぐと言うことに否定的な男性(あしながおじさん)が登場する.女性の自立においては両性の協力は必須であり,夫の理解なくして実現できるものではない.そういった女性の自立という題材をこの当時に描けたというのは,「あしながおじさん」の出版年からすれば日本は30年遅れていたとも見なせるが,30年だけ遅れていただけだったのか,とも思えた.

 

「女王の教室」

 元宝塚の人が主演で「女王の教室」というドラマがある。このドラマは、強圧的な先生が児童を虐げているように見せかけて、実は児童自らが自立して正しい選択を選ぶようになるよう誘導していたという、専制国家から民主国家(主体は児童)が誕生するというようなストーリで、発想としてはアイザック・アシモフの「ファウンデーション」を連想するものがある。(更にいうならば、ラプラスの悪魔か。)このドラマの中で、過去の話として、「なぜ人は殺していけないのか」と児童に問われ、先生は答えられなかったという話があるのだが、これを聞いて以来、私の中でこの問いが、解くべき重大課題になっていた時期がある。

 今でこそ、哲学の本あたりを読めば、そんなことは書いてあることは分かっているが、当時はそんなことは知らないので、いろいろ考え、「人殺しが合法になったら社会が混乱、崩壊するから。人殺しによる人口減少によって、社会の生産性が低下するから。」というような結論を下した。こんな事が分かっても意味は無いのだが、その時分は相当うれしかったことを覚えている。この論法を拡大して、『「善とは全人類の最大公約数的幸福」とすれば、すべての善の根拠が示せる。』と喜んだものである。

 こうして、私の次なる目標は「宗教の否定」へと向かい、これは失敗に終わる。(あと、全世界からの核廃絶とかも考えていたが、権力が無いと無理という結論に至る。(すくなくとも70億人の中から、権力なしで実現する方法を考えた人はいないという結論。核廃絶に作用するような決定的ミームはいまのところ存在しない。)

マイノリティに対する社会の態度、マイノリティ側の社会への態度

 先生の「今のところで、分からないところがあったら聞いてね」という問いに対して、お決まりのように生徒から質問が返ってこない姿は、日本の授業における日常的な風景だ。分かりにくいところがあったのならば、質すのがお互いの利益にかなうというのに、声を上げない。(明らかに自分の質問が大多数派と自覚できる場合に限っては、押し出されるようにおずおずと質問もされるが、大多数派と確信できない限り質問は発せられない。)

 この現象は、マイノリティに対する意見封殺の一例とみることができるだろう。マイノリティに対する意見封殺がこの程度であれば可愛げもあるが、たとえば、これが国家における意思決定であれば、問題は看過できない。国家の興廃がかかるような意思決定において、マイノリティの意見を封殺するような力が働けば、先の大戦のような過ちをまた繰り返すことになる。(問題は戦争か平和かという選択ではなく、意思決定においてマイノリティの意見を取り込む社会的土壌があるのか無いのかであって、毎回の問いが戦争か平和かという選択とは限らないということである。経済連合に加わるか加わらないかであったりするかもしれない。)

 しかし、日本社会は、先の大戦での教訓として、このことを学ばなかったからこそ、現代でもこのような風景が繰り返され、このような日常的な風景から、日本社会の病理をいちいち自覚することになるのではないだろうか。(日本国民の一般的な見解としては、軍部の暴走から間違った選択を強いられたという考え方が大多数だろうが、このようなマイノリティに対する意見封殺も間違った選択の原因だろう。)

 しかし、少なくとも、小学生の頃は、分からないことがあれば遠慮無く授業中でも質問していた記憶がある。これというのは、小学生が、まだ社会には取り込まれていない、非社会的生物であったからと考えられる。そして、社会的生物として社会に取り込まれていく過程で、質問を発しなくなるのである。つまり、一つだけ安心できる点は、社会の病理であって、民族の病理ではないという点である。

 アメリカの大学の授業を見ると、学生が授業中でも自由に質問を発している。アメリカは人種のるつぼであり、マイノリティを受容し、社会に取り込む文化があったからこそ、強大な大国になり得たのだ。アメリカのような風景が訪れんことを。

思うこと

最近いくつか考えるところがあり、その考えを箇条書きでまとめたいと思う。

愛国心は必要

 戦時中の愛国心による悲劇は、愛国心を利用した同調圧力による悲劇であり、思春期の精神的成長に愛国心は必要不可欠。

・戦争はぜったいにこちらからは仕掛けない

 中国の軍事的脅威が拡大する中であり、平和主義の限界も認められるが、アメリカの傘の中に入れさせて貰い、国際的平和を享受する。

自衛隊廃止という選択でも良いので、憲法を改正する

 護憲という選択は、必ずしも憲政を護るという意味ではない。

・戦争についての謝罪は今の世代は必要ない

 私はゆとり世代であり、戦争に荷担したわけではない。

・歴史に目を背けない

 戦争における過ちは少なからず存在することは事実であり、それを胸に刻まなければならない。

雀荘の闇

 研究室の後輩(元同級生)に聞いた話である.彼は雀荘にアルバイトで勤めているのだが,そこの雀荘は賭麻雀が公然と行われており,彼自身も賭麻雀をさせられるので,掛け金で稀に赤字になることがあるそうだ.それでも,彼は強い方なので殆どの場合は黒字なそうであるが.

 それよりも酷い話が,社員の人である.彼の勤める雀荘には社員も居るのだが,社員は賭麻雀の掛け金が給料から天引きになっており,負けが続くと給料は数万円になって明らかに生活出来ない額しか貰えないこともあるそうだ.そういう制度があるので,一ヶ月で辞めていく人は多いそうなのだが,その人はむしろ幸福な方で,辞めない人もおり,その場合はさらに悲壮なことになる.

 給料では生活出来ないので,店長からお金を借りるのである.そうすると,返済のために辞めることが困難となり,ずるずると安い給料で飼い慣らされるのである."ブラック企業"どころか現代の"闇"である.そのように彼に話すと,「奴隷のようだね」という話だった.

 しかし,賭麻雀は違法行為であり,違法行為に基づいた給料の天引きも法律に基づいていない.なので,労働基準局に訴え出れば,高い確度でその天引きは返済されるはずであると思う.どのような名目で天引きされているのか聞き出せなかったが,法律に基づいていない以上,その天引きの法的根拠は存在しないはずである.

 そもそも問題は,賭け事を公式には違法としているにもかかわらず,強制的に規制しない所にある.規制しないがために,一切の法整備が行われず,有耶無耶の中,アンダーグラウンドで異常な状況がまかり通るのである.

 規制するつもりが無いのなら,合法化して,法整備を整えるべきである.そうすることによって,利用者も労働者も健全な環境の中,賭け事という遊戯を楽しめるだろう.

 日本は全てに於いて,事なかれ主義なので有る.もし,大胆な変革を受入れなければ,その内に,社会が腐って行くであろう.府は腐るのである.