「女王の教室」

 元宝塚の人が主演で「女王の教室」というドラマがある。このドラマは、強圧的な先生が児童を虐げているように見せかけて、実は児童自らが自立して正しい選択を選ぶようになるよう誘導していたという、専制国家から民主国家(主体は児童)が誕生するというようなストーリで、発想としてはアイザック・アシモフの「ファウンデーション」を連想するものがある。(更にいうならば、ラプラスの悪魔か。)このドラマの中で、過去の話として、「なぜ人は殺していけないのか」と児童に問われ、先生は答えられなかったという話があるのだが、これを聞いて以来、私の中でこの問いが、解くべき重大課題になっていた時期がある。

 今でこそ、哲学の本あたりを読めば、そんなことは書いてあることは分かっているが、当時はそんなことは知らないので、いろいろ考え、「人殺しが合法になったら社会が混乱、崩壊するから。人殺しによる人口減少によって、社会の生産性が低下するから。」というような結論を下した。こんな事が分かっても意味は無いのだが、その時分は相当うれしかったことを覚えている。この論法を拡大して、『「善とは全人類の最大公約数的幸福」とすれば、すべての善の根拠が示せる。』と喜んだものである。

 こうして、私の次なる目標は「宗教の否定」へと向かい、これは失敗に終わる。(あと、全世界からの核廃絶とかも考えていたが、権力が無いと無理という結論に至る。(すくなくとも70億人の中から、権力なしで実現する方法を考えた人はいないという結論。核廃絶に作用するような決定的ミームはいまのところ存在しない。)

マイノリティに対する社会の態度、マイノリティ側の社会への態度

 先生の「今のところで、分からないところがあったら聞いてね」という問いに対して、お決まりのように生徒から質問が返ってこない姿は、日本の授業における日常的な風景だ。分かりにくいところがあったのならば、質すのがお互いの利益にかなうというのに、声を上げない。(明らかに自分の質問が大多数派と自覚できる場合に限っては、押し出されるようにおずおずと質問もされるが、大多数派と確信できない限り質問は発せられない。)

 この現象は、マイノリティに対する意見封殺の一例とみることができるだろう。マイノリティに対する意見封殺がこの程度であれば可愛げもあるが、たとえば、これが国家における意思決定であれば、問題は看過できない。国家の興廃がかかるような意思決定において、マイノリティの意見を封殺するような力が働けば、先の大戦のような過ちをまた繰り返すことになる。(問題は戦争か平和かという選択ではなく、意思決定においてマイノリティの意見を取り込む社会的土壌があるのか無いのかであって、毎回の問いが戦争か平和かという選択とは限らないということである。経済連合に加わるか加わらないかであったりするかもしれない。)

 しかし、日本社会は、先の大戦での教訓として、このことを学ばなかったからこそ、現代でもこのような風景が繰り返され、このような日常的な風景から、日本社会の病理をいちいち自覚することになるのではないだろうか。(日本国民の一般的な見解としては、軍部の暴走から間違った選択を強いられたという考え方が大多数だろうが、このようなマイノリティに対する意見封殺も間違った選択の原因だろう。)

 しかし、少なくとも、小学生の頃は、分からないことがあれば遠慮無く授業中でも質問していた記憶がある。これというのは、小学生が、まだ社会には取り込まれていない、非社会的生物であったからと考えられる。そして、社会的生物として社会に取り込まれていく過程で、質問を発しなくなるのである。つまり、一つだけ安心できる点は、社会の病理であって、民族の病理ではないという点である。

 アメリカの大学の授業を見ると、学生が授業中でも自由に質問を発している。アメリカは人種のるつぼであり、マイノリティを受容し、社会に取り込む文化があったからこそ、強大な大国になり得たのだ。アメリカのような風景が訪れんことを。

思うこと

最近いくつか考えるところがあり、その考えを箇条書きでまとめたいと思う。

愛国心は必要

 戦時中の愛国心による悲劇は、愛国心を利用した同調圧力による悲劇であり、思春期の精神的成長に愛国心は必要不可欠。

・戦争はぜったいにこちらからは仕掛けない

 中国の軍事的脅威が拡大する中であり、平和主義の限界も認められるが、アメリカの傘の中に入れさせて貰い、国際的平和を享受する。

自衛隊廃止という選択でも良いので、憲法を改正する

 護憲という選択は、必ずしも憲政を護るという意味ではない。

・戦争についての謝罪は今の世代は必要ない

 私はゆとり世代であり、戦争に荷担したわけではない。

・歴史に目を背けない

 戦争における過ちは少なからず存在することは事実であり、それを胸に刻まなければならない。

雀荘の闇

 研究室の後輩(元同級生)に聞いた話である.彼は雀荘にアルバイトで勤めているのだが,そこの雀荘は賭麻雀が公然と行われており,彼自身も賭麻雀をさせられるので,掛け金で稀に赤字になることがあるそうだ.それでも,彼は強い方なので殆どの場合は黒字なそうであるが.

 それよりも酷い話が,社員の人である.彼の勤める雀荘には社員も居るのだが,社員は賭麻雀の掛け金が給料から天引きになっており,負けが続くと給料は数万円になって明らかに生活出来ない額しか貰えないこともあるそうだ.そういう制度があるので,一ヶ月で辞めていく人は多いそうなのだが,その人はむしろ幸福な方で,辞めない人もおり,その場合はさらに悲壮なことになる.

 給料では生活出来ないので,店長からお金を借りるのである.そうすると,返済のために辞めることが困難となり,ずるずると安い給料で飼い慣らされるのである."ブラック企業"どころか現代の"闇"である.そのように彼に話すと,「奴隷のようだね」という話だった.

 しかし,賭麻雀は違法行為であり,違法行為に基づいた給料の天引きも法律に基づいていない.なので,労働基準局に訴え出れば,高い確度でその天引きは返済されるはずであると思う.どのような名目で天引きされているのか聞き出せなかったが,法律に基づいていない以上,その天引きの法的根拠は存在しないはずである.

 そもそも問題は,賭け事を公式には違法としているにもかかわらず,強制的に規制しない所にある.規制しないがために,一切の法整備が行われず,有耶無耶の中,アンダーグラウンドで異常な状況がまかり通るのである.

 規制するつもりが無いのなら,合法化して,法整備を整えるべきである.そうすることによって,利用者も労働者も健全な環境の中,賭け事という遊戯を楽しめるだろう.

 日本は全てに於いて,事なかれ主義なので有る.もし,大胆な変革を受入れなければ,その内に,社会が腐って行くであろう.府は腐るのである.

明確な倫理基準を自己の中に築く

次の記事(http://togetter.com/li/826854)ではお坊さんは次のように述べている.

イルカを擁護(なんか変な言葉だけど)する方は、同じロジックで「何」まで擁護するのか知りたいなあ。サルはどうなんだろ、「サルの苦痛を…」とはいうのだろうか?じゃあ「魚」は?「牛」は?「植物」は?もしそれらを擁護しないのであれば、その「線引き」は何なんだろう。純粋に興味がある。 

これは,「砂山のパラドック」である.「砂山のパラドックス」とは数学的帰納法にアナロジーをおいた詭弁の一種であり,この「砂山のパラドックス」を具体的に説明すると次のようになる.

あるところに,(n=0)日目では腐っていない牛乳があったとする.腐っていない牛乳は一日経っても腐らないとすると,(n+1)日目でも腐らないということであり,数学的帰納法により,牛乳は常に腐らないということになる.しかし,牛乳はある日を境に腐って飲めなくなるのであり,この理論はどこかに矛盾をはらんでいる.

これが「砂山のパラドックス」である.そして,お坊さんの発言はまさにこれに当たる.どこかに「食べてはいけない」線引きがあるのだ.これに対してある女性が次のように反論した.

逆に何までなら食べませんか?(中略)では何故人間は食べないのでしょう?

これは「砂山のパラドックス」が内包する誤謬を指摘したものだ.その理論を逆に拡大解釈すれば,「人も食べても良い」という理屈になるという指摘である.この反論に対して,先ほどの記事では,泥沼の論戦が続くのだが,私も読む気がしないので,取り上げない.

しかし,このやりとりが起きた原因のそもそもは,我々の中に明確な倫理基準が無いことにあると思う.我々は,曖昧に「イルカは食べても良いが,人は食べてはいけない」という倫理基準を持っている.しかし,曖昧なゆえに,なぜ食べてはいけないのかと言うことを説明できない.だから,このような詭弁が平気で語られる.我々は,「なぜイルカは食べて良くて,人は食べてはいけないのか」という問いに答えられるよう,自己の中に明確な自己基準を築くべきだと,このやりとりを見て思った.明確な倫理基準を築いて精神的な独立を果たそうと言うことだ.

(なお,人それぞれ倫理観は異なり,「イルカも食べてはいけない」と考える人も居るだろう.その人も正しいのであり,お互いの倫理観は尊重されるべきである.)

宗教の七不思議

・仮に神が存在したとしても,あまたある宗教の中で一つ正しい宗教が存在し,それ以外は正しくない宗教となるのだから,無宗教という中立的立場が最も安全な選択ではないのか

世界には数多くの宗教が存在し,既に滅んでしまった宗教,これから生まれてくるであろう宗教などを含めれば,人の数ほど宗教は存在する.そしてほとんどの宗教は,自分以外の宗教の正当性は認めない排他的教義を持っている.すべての宗教が自分以外の宗教の正当性を認めないと仮定すれば,正しい宗教は一つしか存在せず,それ以外は正しくない宗教となってしまう.宗教の数から考えて自分が正しい宗教を選択している可能性は50%を超えるとは考えられず,間違った宗教を選択して反逆者の烙印を押されるよりは,無宗教という中立的立場を取った方が安全なのではないか.

 

・神の存在を信じなくても,正しく生きれば,それで良いのでは無いのか.なぜそれではなダメなのか.

一般的に多くの宗教では,倫理的に正しく生きることを説いているわけであるが,では神の存在は信じないが,倫理的に正しく生きているひとは許されないのか.神の存在を信じることはそれほど大切なのか.

 

・神はなぜ自分の存在を証明しないのに,人類には自分の存在を信じてもらいたいのか

 神は反論の余地が無い明確な方法で自分自身の存在を証明するべきで,それをしないのに,自分の存在は信じろというのは,無理な要求では無いだろうか.そして,信じなければ地獄に落とすという宗教も存在する.

 

・なぜあの世(天国/地獄)の存在を証明しないのか

あの世の目的は宗教によって異なるだろうが,存在が曖昧な状態より,存在を明確に示した方が良いのではないだろうか.懲罰が目的なら,見せしめ的にあの世の存在を示すべきだ.

 

・なぜあの世(天国/地獄)の存在を隠さないのか

あの世の目的は宗教によって異なるだろうが,あの世の目的が恩賞であるならば,曖昧ながらあの世の存在が信じられるよりは,あの世の存在が認知されていない方が良いのではないだろうか.

 

・神はなぜ積極的に人類に干渉しないのか

人類は先史以来,様々な悪行を働いてきたが,奴隷制度や民族浄化などの悪行も人類自身で正してきた.なぜ神が干渉しないのか.そして,地球温暖化や核戦争など人類の存在自体を揺るがす悪行を働こうとしているが,なぜそれを止めようとしないのか.

 

・世界は神が作った箱庭だったとして,宇宙の広さはあまりにも無駄な大きさでは無いか

宇宙は大きすぎる.

強固な世界観を築く

 我々の住む世界は多くの矛盾を内包しており,その帰結として,我々の世界観も矛盾を保留したまま築かれ,今を生きている人は多いと思う.しかし,その保留されたままの矛盾は,アキレス腱の如き脆弱さを秘めており,その脆弱さを埋めるために,我々は宗教に頼ることが多い.宗教では,世の矛盾に対して,神という絶対的権力の名の下に保証された,正しい指針が示されている.我々は,自分自身で矛盾を解決すること無く,神という都合の良い道具を使って,自分自身が解決するべき課題を外部委託しているのである.

 世の中には,悪が満ちあふれている.それに対する自分自身がとるべき態度も,宗教が教えてくれる.善悪の判断も,自分自身で自信を持って断言できないので,宗教という権威に頼る.自分という存在の意義,自分自身の存在,これらを規定する行為も宗教が肩代わりしてくれる.しかし,これら世界観は,思春期に自らが構築するべきものである.

 「死」という宿命を受け止め,それを受容する態度を保留し,「死」から逃げる「輪廻転生」という論法も許されない.「死」と正しく向き合い,現世を悔いなく生きる心持ちを持つべきだ.それは,日本に古来から伝わる,「一期一会」の精神に通ずるものがあるだろう.飽食の時代にあって,これを実践するのは難しいかもしれないが,一粒の木の実を大切に味わい,咀嚼するということが,一度しかない人生を悔いなく,充実して生きるということに繋がる.例えば,ディズニーランドに人生で一度しか遊びに行けなくても,その一度を楽しむ楽しみ方もある.楽しもうと思えば.むしろ,年間フリーパスを購入し,何度も何度もディズニーランドに訪れ,満たされることのない充足感に溺れ続ける人より,それは幸せである.

 宗教というのは便利な道具である.それに頼りたい気持ちも理解できるが,幻想を幻想と知らず,幻想の世界に生きたまま,人生を終えるというのは誠に残念なことだと思う.

 幼児期の子供は,まれに,空想上の友達を作って,自我と世界との折り合いをつける,イマジナリーフレンドという存在を作ることがあるそうだ.宗教もイマジナリーフレンドのような存在だ.自我と世界との折り合いを付けるために存在する空想上の概念という点では.精神的に成長するとは,この空想上の宗教という存在から決別し,世界から独立した精神を構築すると言うことだ.

いざ行かん,宗教の無き世界へと.