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信仰心と愛国心

信仰心と愛国心というのは,性質としては同じ特徴があると思う.信仰心によって人間はモラルや世界観を構築し得るわけであり,社会的公共的な立場から俯瞰してみると宗教という存在は不要不急の存在であるとは断言できない程度には有用の存在であるということを認めなければならないだろう.また,愛国心においても同様の特徴を有しており,モラルや世界観の構築に一定の影響を与えることは明確である.信仰心/愛国心共に,似たようなメリットあるわけであるが,デメリットも同様に存在するのである.

宗教のデメリットは,宗教という虚像に目をつむり真実の世界から目を避けているのではないかという危惧が挙げられる.端的に示せば,信者の永遠の来世が保障されているような,怯えるものに対する不誠実な虚偽的お為ごかしである.人生は有限であることを認めその中で精いっぱい人生を堪能するというが,最も豊かな人生なのではないだろうか.宗教というのは,終末期患者にモルヒネを注射するような盲目的逃避性があるように感じるので,私は個人的には好かないのであるが,世の中から無くなるべきと思うほどには人類の精神は大人ではないので,暫定処置として当分は必要なのではないだろうかと思うわけである.

愛国心のデメリットは戦後の平和教育で皆さん十分にご存じと思われるので,ここでは触れないが,本質的には宗教のデメリットとほとんど同質なものではないかと感じる.宗教によって戦争が起き,宗教によって諍いが絶えないのもまた事実であるのだし.個人的には,宗教よりはコストパフォーマンスの点において愛国心は優れているように感じる次第である.(メリット/デメリット比で)

私は個人的には,愛国心というのは,隣人愛が促され,公共の利益にも適って万々歳な存在と思うのだが,まあ,世間はそうは思わない所が悲しいところである.

森友学園の児童が教育勅語を暗唱しているということが批判的に捉えられているが,キリスト教系の学校で児童に讃美歌を歌わせたり,神を崇め奉ったりするのと本質的には同じような気がしたので,この文章を書いた.)

 

結論

  • 信仰心と愛国心はその特徴は本質的には同じものであり,同様なメリットとデメリットが存在するが,愛国心の方がメリット/デメリット比で優れていると考える.

新旧ゴジラに見る暗喩,及びその暗喩の意味

1954年公開の「ゴジラ」は,当時の人たちが見れば,それはゴジラを空襲(もしくは原爆)の暗喩とおいているということは明瞭に分かった事だろう.翻って,昨年大ヒットし,日本アカデミー賞を総なめした「シン・ゴジラ」もまた,ゴジラ原発事故の暗喩とおいていることは,現世代から見れば,明白な事実である.何の因果かは分からないが,両作品ともに,原子力の負の側面をゴジラで表現してきたという事実には,何か不思議な相関を感じずにはいられない.

さて,両作品ともに,思い出したくない災厄をゴジラを暗喩に追体験するかのような内容となっており,なぜこのような忘れたいだろう過去をあえて思い出させるような作品が,日本の映画史に残るようなヒットを打ち出したというのかということは当然のごとく疑問として挙げられなければならないだろう.

この疑問に対して私は次の仮説を提示する.

受け入れがたい事象であっても, いつかは記憶として受け入れる必要がある.そのために,その事象を再定義するような作品が社会的に求められ,多くの人々がその事象の再定義を望むとき,ゴジラのように,暗喩を用いて辛い災厄を追体験するような作品が生み出される.

 原発事故も空襲も,多くの国民は一方的に受難の立場であった.市民の努力によって状況が僅かでも変化する余地がある性質ではなかった.自分の介在しない所からいきなり災厄が発生し,そして,自分たちの努力を発揮する事もなく終わってしまうのである.これでは,市民のやるせない思いは如何程のものであったであろうか.受け入れがたい事象,自分たちの無力さ.これらに対して解決を求めた時,ゴジラが生み出されるのだろう.

ゴジラという災厄に対して,最善とは言えないまでも,善処し,主人公達の努力によって最終的にはゴジラに勝利するという追体験を主人公に付託して経験し,過去の災厄に一区切りを打ち,記憶として受け入れようというのがゴジラという映画なのではないだろうか.

同時期に公開された「君の名は」が海外でも好評であったのに対して,「シン・ゴジラ」が日本のヒットに対して海外では鳴かず飛ばずだったということもこの仮説と照らし合わされば,納得できるだろう.「君の名は」は,恋愛という普遍的価値観の上に描かれた作品だった.「シン・ゴジラ」は原発事故という日本人の心のしこりを解消するために描かれた作品であり,原発事故という心のしこりを抱かずに済んだ,海外では,そもそもこのような映画は求められていないのである.ゆえに,「シン・ゴジラ」は海外でヒットしなかったのである.

結論

  • シン・ゴジラ」は日本人が抱えていた原発事故という心のしこりを解消するために,社会的要請として出現した作品である.ゆえに海外ではヒットしなかった.
  • ゴジラという災厄に対していかに克服するかを,主人公たちに付託し,ゴジラへの勝利という結末によって過去の災厄に一区切りをうち,記憶として受け入れようというのがゴジラという映画なのではないだろうか.

研究室配属を控えた四年生に伝えたい,研究を進める為のノウハウ

<研究室選び>

研究室選びは今後研究を進める上で最も重要な選択となります.ここで誤った選択を選んでしまった場合,諦めず,軌道修正を試みてください.たとえば私の大学の場合,同一学科内では,研究室の変更は認められている様ですし,研究室変更後も予定通り論文審査は受けられる様です.つまり,研究室を変更したとしても,努力すれば留年せずに卒業できる訳です.

<研究室選びのポイント>

研究室といえども,人間関係は無視できません.自分の性格と合った研究室を選ぶようにしましょう.自分のやりたい研究を出来たとしても,自分の性格と合わない研究室を選んでしまっては,期待通りの研究はできないかもしれません.研究内容と,自分の性格と合う研究室かというこの二点を比較し,上手く折り合いの合う研究室を選びましょう.実際,私の学年でも,うつ病になって留年した人や,大学院で中退し,卒業していった人がいます.(90人の学科に対して2人?)研究室選びは重要です.

<研究のこころ(核心)>

研究を進める上で特に心に留めておくべき事項としては,論文を中心として研究を進めるということです.科学というのは,先人たちの研究の上に成り立っており,新しい知見を論ずる上でも,先人たちの研究を疎かにすることはできません.もし,先人たちの研究を無視して,新しい知見を論ずる場合,その知見は根拠のない空言となってしまいます.また,まったく新しい,独創的な研究の場合,先人の知見は利用できないことになると思いますが,それはよほどの天才の場合であって,普通の秀才か凡人は,普通は,すでにある研究に乗っかる形で研究を進めることになると思います.

既存研究に乗っかる場合は,その乗っかる研究の正統性(根拠)を示すため,先行研究(論文)は重要となるのです.参考文献としてその論文を提示し,乗っかる研究の正統性を示すことができれば,あとは自分の研究の正統性を何らかの配慮(例えば,実験値と比較するなど)を払って示すことができれば,疑義のない研究となるわけです.

<論文のこころ(核心)>

-論文調査の進め方-

まず,論文調査で重要なポイントは,発表年著者です.発表年が古い場合は,そのテーマについては他の研究者が既に研究をやりつくしている場合が多く,いまさら新しい研究テーマは見つけられないかもしれません.また,著者も重要なポイントであって,信用できない著者の研究をいくら突き詰め,極めたとしても得られるものは何もありません.

-論文の探し方-

一般的にはその分野のジャーナルを図書館などで探す,インターネットなどで公開されている論文を探すなどの方法があるかと思います.私の研究室では,もっぱらScienceDirectというサイトを利用していました.

ただ,研究室配属当初はその分野についてはまったくの素人であり,漠然としてつかみどころがないかもしれません.そういった場合は,その分野の専門書を図書館で借りてきて読んでみるといいかもしれません.また,そういった専門書の巻末には参考文献として論文が挙げられていますので,年度は若干古いかもしれませんが,取っ付きとしては,参考文献に挙げられている論文を読んでいくというのも良い手かもしれません.そして,そういった論文はその分野では有名な論文であると思われるので,その論文を引用している論文を読んでいくと芋ずる式に論文を探していけるかもしれません.

-論文の質-

論文にも質があります.最も質が高いのは,有名な学会誌に載せられた査読付き論文です.論文の質にも注意しましょう.

<研究のモデルケース>

例えば,あなたの所属する学科が工学部筆記用具学科だったとします.あなたは数ある研究室の中から,筆記用具学科のボールペン研究室を選択しました.ボールペン研究室では,筆記用具の中でもボールペンについて研究しています.おそらくあなたは,配属されてすぐに,指導教官のボールペン先生に論文調査を取り組むよう命じられます.

論文調査を命じられたあなたは,三色ボールペンの論文に目が留まりました.その論文では,今までは単色だったボールペンを三本のインクをまとめることで,ボールペン一本で三色の色を表現できるようにするという提案がなされていました.

この論文を読んだあなたは,三色ボールペンシャープペンシルを加えたらさらに便利になるはずだと思いました.そこで,あなたは,三色ボールペンを研究テーマとすることにし,三色ボールペンシャープペンシルを加えるよう研究に取り組みます.(悲しいことに,これがなかなかうまくいかないのですな.うまくいかないからこそ研究と言えるのですが.簡単な研究はありません.)

晴れて三色ボールペンにシャープペンを加えることに成功した場合,次に,研究内容を世間に報告する必要があります.研究発表で最も重要なことは,既存手法と比較して新しい手法が如何に優れているかという優位性/新規性を提示することになりますので,実際にシャープペンシル三色ボールペンに加えることで,筆記用具入れの面積がどれだけ削減されるとか,シャープペンシルに持ち替える時間がどれだけ削減されたなどという事実を定性的/定量的に提示し,その手法の優位性を証明する必要があります.これが実験/検証にあたります.

実験/検証を達成すれば,あとは論文を書くだけとなります.論文については大体次のような内容となります.

 

[背景]

今まで,別々に存在していた三色ボールペンとシャープペンでは,筆記時に持ち替えが発生し,時間損失となっていた.そこで,三色ボールペンにシャープペンを加えた新しい筆記具を提案する.

[理論]

三色ボールペンにシャープペンを加える理論を説明する.

[検証]

シャープペンを加えることで,利用者がどれだけ便利になったかを定量的/定性的に提示する.

[結論]

三色ボールペン+シャープペンの利便性を概括する.

 

というような内容の論文を作って,指導教官に提出すれば,あとは卒業ということになると思います.

-その他-

ゼミ発表などを通して,先輩はどのように研究を進めているのか,研究室に所蔵してある歴代卒業生の卒業論文を調査して,卒業論文の全体像/落としどころを把握するなど,(研究室に配属されたなら)モデルケースの調査に努めましょう.マニュアル人間の誹りを受けるかもしれませんが.

慰安婦問題について

ヘイトスピーチ規制法案の施行や日韓スワップの再開など,日本側の歩み寄りがまずあった. これは日韓両国の歴史的遺恨を解消するという共通の目的を意識したものであったように思う.遺恨の解消というのは,健全で正常な両国国民の交流を促す上で正しい選択であったことは明白である.これに対する返礼が「最終的で不可逆な慰安婦問題の解決」という日韓合意だったように思う.
しかし,韓国の歴代の政権を振り返ると,友好的だった対日姿勢を,政権末期に於いては,一変して強硬な対日姿勢へと翻す傾向があり,また,現在の韓国の政治的混乱を見るに,次期政権では,先の日韓合意を反故にされるのでは無いかという危惧があった.そして,この局面に於いての,日本領事館への慰安婦像設置の韓国政府黙認である.もはやレームダック化している政権においてはやむを得ない対処だったのかもしれないが,たとえ自らの政治的評価を犠牲にしてでも,自分自身が約した約束は守るというのが政治家にとって最も尊ばれるべき態度では無いだろうか.その約束の不忠義に対して,日本側がとった対応は全く適切であったし,外交的な効果に於いても抜群であったと評価できる.
なぜならば,約束を反故にした場合,日本がどの様な態度を取るかと言うことを鮮明に示すことが出来たし,今回の件に於いては,日本側が明らかに正義であるのだから.次期政権に置いても,この処置は効果的な牽制となったであろうし,次期政権以降も慰安婦に関する日韓合意は尊重されるのでは無いかと期待できる.日韓両国の歴史的軋轢の解消を期待したい.
 
補足
慰安婦問題は当事者世代の問題であって,当事者世代でも無い私にとっては,「そんなことを責められても,困る」というのが素直な感想である.私の祖父はその頃は満州に居たし,全く無関係である.

生前退位(生前禅譲だと語呂が悪いなあ)

 ニュースをみると生前退位がトピックに上がっているが,女系天皇制云々で皇室典範改正を,とことん事なかれ主義でうやむやに流して,問題を先送りにしたって言うのを見てきた立場としては,今回もうやむやに流れるんだろうなっておもった.(時代に合わせてどんどん変えれば良いのになあ.)

 まあ,護憲派がとことん憲法改正したくないのと同じ心情なんだろうなあと思う.一度変えちゃうと止めどなく変わっちゃいそうだからね.護典派?

 保守派とリベラル,護るものの立場が変われど結局,同じような頑迷な考えに陥っちゃうようになるって言うのは,悲しいといえばかなしい.

憲法改正

 先般の参議院選挙の結果を見るに,憲法改正が現実感を持ち始めたわけである.私の家は,祖父が熱烈な自民党員だったこともあるので,当然今回も自民党に入れさせていただいた.(議員の奥さんの戸別訪問に一日つき合わされたり,山の畑で,不要になったポスター用の合板の板(1*1[m^2]くらい?)を,数十枚野焼きしたり,議員亡き後の財産整理で,何もない政治家宅の部屋に一日放り込まれ,祖父が別室で仕事している間,何もしないで待っていたり,結構自民党員(?)やってたわけですよ,僕も.)

 で,思うのが,憲法九条改正するのかなと言うことである.憲法改正は,まあ,保守派の悲願であるわけであるが,集団的自衛権は認められたわけであるし,明文化はされていないけれども解釈によって自衛権自衛隊の存在)は認められているわけで,まさか改正によって交戦権まで認めることにはならないよね?って思う次第なのである.アメリカの戦後の歴史を見るに,ベトナム侵攻,パナマ侵攻,イラク侵攻,大概は関係者全てが不幸になっているという明確な裏打ちがあるわけで,今の時代に,交戦権は大国でもない日本には当然不要の長物であって,あっても不幸になるだけ,仮に飾りとしての価値だけを考えたとしても,それを得るために失う物の方が多いような気もしてしまうわけである.

 でも,しかし,改正したいという保守派の心情も分からないでもないわけである.結局憲法はアメリカさんから与えられた物であって,自分達で打ち立てた物ではないという,引け目が,その心情の源泉なんだろうなとも思う.であるからして,どうすれば良いかと言えば,憲法の序文を改正するって言うので,どうですかと思うのである.本文の方を改正すると,今まで積み上げてきた物を一からやり直すって事になって,いろいろ面倒だし,序文なら日本国民としての心情琴線を表現し,日本国民のための憲法であると言うことを宣言明示出来るであろうから,ちょうど良いのではないかと考えるのである.まあ,妥協案である.出来ることなら,全部書き換えたいというのが,本心だろうが,差し障りが多いだろうし,何を求めているかと言うことを分析すると,本質は,日本国民のための憲法であるという意味づけを求めているのであるのだから,序文を日本人の手で書き表せたのなら,それで良いんじゃないのかなと思うわけである.

書評

 中川恒子著の「乗合馬車」を読む.日本人妻の外国女性が,日本で自分の店を開くという内容だが,女性の社会進出を描いた内容であり,この内容を戦前に発表して,芥川賞を受賞したという事実は感慨深いものがある.ではあるが,女性の社会進出を日本在住の外国人女性に付託して描いている点は,当時の日本の限界だったのかも知れない.果たして,純粋な日本人女性が,家庭を持ちながら"道楽"でお店を開くと言うことが,当時の社会で受け入れられたのであろうか.作中では,進歩的な混血女性と旧弊な考えの純日本人女性との対話中で「ひとはパンのみに生きるにあらず」という下りがある.女性は家庭のほかに,自分の生きがいを求める権利があるというのは,当世においては当然の考え方であるが,その当時は女性は良妻賢母であればそれで良いという時代であって,その意味で非常に進歩的だと感じた.

 作中では,女主人公が仕事に熱中するあまり,家庭が疎かになり,そのことに反発する夫が描かれているが,本作より30年ほど先行して出版された「あしながおじさん」においても,やはり,女性がお金を稼ぐと言うことに否定的な男性(あしながおじさん)が登場する.女性の自立においては両性の協力は必須であり,夫の理解なくして実現できるものではない.そういった女性の自立という題材をこの当時に描けたというのは,「あしながおじさん」の出版年からすれば日本は30年遅れていたとも見なせるが,30年だけ遅れていただけだったのか,とも思えた.